とうとう念願の富士御室浅間神社に足を踏み入れた。
立石に力強く書かれた「富士御室浅間神社」の文字は
歴史を感じさせる。
静かすぎる…。信玄の魂どころか、人っ子ひとりいないようだ。
だって、社務所すら開いていないのだから。
とりあえず手近にあった(失礼)大分古い本殿と思われるところで
お賽銭を入れて祈りを捧げた。
ところで、最近の私は、神社などで祈願する際、お願いごとをしないようにしている。
ただ一言、「いつも色々とありがとうございます。」と心の中で唱えている。
「色々と」という言葉により抽象性を持たせ、「あらゆる時、あらゆる場面で、何かしらお世話になっております」というニュアンスを出すことに成功し、我ながらなかなか使い勝手の良いフレーズであると思っている。
今までの私は、時間の許す限り心の中でお願いごとを繰り返していたものだ。自分の幸せはもちろん、家族のこと、大好きな友人たちのこと。
時には「ミスチルのコンサートツアーがつつがなく行われますように。」と、日本を代表するアーティストの興行の成功までも祈っていた。
彼らの毎度のコンサートの最高のパフォーマンスの裏には、一ファンとしての私の微力も一役買っているということも信じたい。
このように「願ったもん勝ち」という精神において神仏に手を合わせていたというわけだ。
しかし、先日とある本(?)サイト(?)媒体ははっきりとは覚えていないのだが、こんなことを書かれていたのを発見したのだ。
「神様は、毎日毎日、たくさんの人から色々なお願いをされて、もうパニック状態。大忙し。そして、そんな願ってばっかりの利己主義な人間たちに、神様でさえも、嫌気がさしているほどだった。でも、そんな時にこんな祈りが
『神様、いつもいつもお守り頂いてありがとうございます。(終了)』
(神様、感動!)
お願いごとばかり人々の中に、一人だけ、何も願わずただただ感謝を述べている人が!神様は言った。
『ん?キミ、何か困ったことや叶えたい夢などは無いのかい?神様キミのためなら一肌脱いでやるぞ』」
と。
これを読んで、「うん、確かに。」と思った。
神仏も、利己的な人間たちよりも、そんな謙虚な人間の願いこそ、最優先に叶えたいと思うだろう。
それを知って以来、参拝する際は私はお願いごとをせず、お礼だけを述べているというわけだ。
しかしながら未だ、神仏から『ん?謙虚なお主よ。何か願いはないのかね?』という呼びかけがきているような気配はない。
上記の情報により、願い事をせずに、感謝だけを述べる人が急増し、「願いをかなえてやる人」の抽出作業に神様はまたもや大忙しなのかもしれない。
はたまた、「願いごとをしないで、ただお礼を伝えることで神仏に願いを聞き入れてもらいやすくなるらしいからそうしよう。」という、謙虚な人間の皮を被った私の狡猾さが、実は神仏にはみえみえなのかしら…。
こうなったらもうひたすら無作為に、時には感謝に加えて願い事もし、また時には感謝だけすることにしてみよう。
どんな行動を取るのかわからない人ってミステリアスだ。ミステリアスな人間は人を惹きつけるものがあるので、もしかしたらそんな私のミステリアスさに神仏も惹きつけられ、願いを叶えてくれたら幸いである。
ミステリアスな部分を駆使して神仏を惹きつけようと目論む私の挑戦は続く。
そして、感謝を心の中で述べ終えた私は、誰もいない社内にある古びたベンチに座り、深く深呼吸をして空を眺めた。
見事な「青」のグラデーション。雲一つない突きぬける青空。
この写真、雪化粧した富士山が逆さになっているように見えなくも
ないですか。
本当に静かで、空気がこれでもか!ってほど澄んでいて、そんな環境にしばらく身を置いていると意味もなく身ぶるいしてしまう。
私が今この富士のふもとにある由緒正しき神社において空を仰いでいる間に、皆は仕事をしたり、ご飯を食べたり、笑ったり、泣いたり、怒ったりという生命活動を営んでいるのだなぁ、などとぼんやり考えていた。
人ひとりいない、あまりに静かな環境も手伝って、そんな現実社会と自分との間に横たわる断絶感を感じ、ふいに大きな孤独感に襲われた。自分ひとりがこの世に取り残されたような感覚。大げさかと思われるかもしれないけれど、何だか急に怖くなった。人と触れあいたい!と思ったのだ。
私は急いで神社を出た。
富士御室浅間神社。むむ。信玄ゆかりの神社ということだけあって、そこを訪れた人に何がしかの感情を喚起させるパワーを持っているのだろうか。侮るなかれ。
・・・まぁ人一人いない静かすぎる環境っていうだけなのかもしれないけれど。
そんな恐怖感に苛まれた神社から、命からがら逃げて出た私は
ふと後ろを振り返った。
『振り返れば奴がいる』のである。
織田雄二ではない。
カンチでもない。
富士山がいるのである。
大体どこにいても東西南北どちらかの方角を向けば富士山はそこにいるのである。河口湖町の住人の人々は、常に富士山に見守られて日々を送っているというわけだ。
何ていう幸せ者だろう。
私は孤独感に苛まれていたこともあり、河口湖沿いの歩道を歩いていた住人とおぼしきおばあさんを捕まえ、自分は単身で千葉から富士山を見にやって来たことと、いかに富士山に感動したかを語り、
「いつも富士山を見られるなんて本当に羨ましいです。」
と、河口湖町の住人に対する羨望の念を伝えた。
「いーやいや、あんなの毎日見てるから、ありがたくも何でもねえす。」
と、おばあさん。
そうか。日本一と称されるあんなにも素晴らしい山であっても、毎日眺めていると特にありがたくもなんともなくなるのか。
いや、でも、やはり私は常に富士山に見守られて生活をしているここの住人の人々は、やはり幸せ者なのだろうと思う。毎日眺めているから新鮮味はないのかもしれないけれど、日本一の素晴らしい山の麓で生活を営む上で、特別意識することはないにせよ、日々日本人としての誇りと自信が育まれているのではないのだろうか。
でも、簡単に富士山を見ることのできない私だって幸せ者だ。
だって、麓に住む人々と比べてなかなか眺めることができないからこそ、こうやってたまに対面する時、そのつどその圧倒的な存在感に大いに感動することができるのだから。
って、あはは、いつまで続くんだーい!
立石に力強く書かれた「富士御室浅間神社」の文字は
歴史を感じさせる。
静かすぎる…。信玄の魂どころか、人っ子ひとりいないようだ。
だって、社務所すら開いていないのだから。
とりあえず手近にあった(失礼)大分古い本殿と思われるところで
お賽銭を入れて祈りを捧げた。
ところで、最近の私は、神社などで祈願する際、お願いごとをしないようにしている。
ただ一言、「いつも色々とありがとうございます。」と心の中で唱えている。
「色々と」という言葉により抽象性を持たせ、「あらゆる時、あらゆる場面で、何かしらお世話になっております」というニュアンスを出すことに成功し、我ながらなかなか使い勝手の良いフレーズであると思っている。
今までの私は、時間の許す限り心の中でお願いごとを繰り返していたものだ。自分の幸せはもちろん、家族のこと、大好きな友人たちのこと。
時には「ミスチルのコンサートツアーがつつがなく行われますように。」と、日本を代表するアーティストの興行の成功までも祈っていた。
彼らの毎度のコンサートの最高のパフォーマンスの裏には、一ファンとしての私の微力も一役買っているということも信じたい。
このように「願ったもん勝ち」という精神において神仏に手を合わせていたというわけだ。
しかし、先日とある本(?)サイト(?)媒体ははっきりとは覚えていないのだが、こんなことを書かれていたのを発見したのだ。
「神様は、毎日毎日、たくさんの人から色々なお願いをされて、もうパニック状態。大忙し。そして、そんな願ってばっかりの利己主義な人間たちに、神様でさえも、嫌気がさしているほどだった。でも、そんな時にこんな祈りが
『神様、いつもいつもお守り頂いてありがとうございます。(終了)』
(神様、感動!)
お願いごとばかり人々の中に、一人だけ、何も願わずただただ感謝を述べている人が!神様は言った。
『ん?キミ、何か困ったことや叶えたい夢などは無いのかい?神様キミのためなら一肌脱いでやるぞ』」
と。
これを読んで、「うん、確かに。」と思った。
神仏も、利己的な人間たちよりも、そんな謙虚な人間の願いこそ、最優先に叶えたいと思うだろう。
それを知って以来、参拝する際は私はお願いごとをせず、お礼だけを述べているというわけだ。
しかしながら未だ、神仏から『ん?謙虚なお主よ。何か願いはないのかね?』という呼びかけがきているような気配はない。
上記の情報により、願い事をせずに、感謝だけを述べる人が急増し、「願いをかなえてやる人」の抽出作業に神様はまたもや大忙しなのかもしれない。
はたまた、「願いごとをしないで、ただお礼を伝えることで神仏に願いを聞き入れてもらいやすくなるらしいからそうしよう。」という、謙虚な人間の皮を被った私の狡猾さが、実は神仏にはみえみえなのかしら…。
こうなったらもうひたすら無作為に、時には感謝に加えて願い事もし、また時には感謝だけすることにしてみよう。
どんな行動を取るのかわからない人ってミステリアスだ。ミステリアスな人間は人を惹きつけるものがあるので、もしかしたらそんな私のミステリアスさに神仏も惹きつけられ、願いを叶えてくれたら幸いである。
ミステリアスな部分を駆使して神仏を惹きつけようと目論む私の挑戦は続く。
そして、感謝を心の中で述べ終えた私は、誰もいない社内にある古びたベンチに座り、深く深呼吸をして空を眺めた。
見事な「青」のグラデーション。雲一つない突きぬける青空。
この写真、雪化粧した富士山が逆さになっているように見えなくも
ないですか。
本当に静かで、空気がこれでもか!ってほど澄んでいて、そんな環境にしばらく身を置いていると意味もなく身ぶるいしてしまう。
私が今この富士のふもとにある由緒正しき神社において空を仰いでいる間に、皆は仕事をしたり、ご飯を食べたり、笑ったり、泣いたり、怒ったりという生命活動を営んでいるのだなぁ、などとぼんやり考えていた。
人ひとりいない、あまりに静かな環境も手伝って、そんな現実社会と自分との間に横たわる断絶感を感じ、ふいに大きな孤独感に襲われた。自分ひとりがこの世に取り残されたような感覚。大げさかと思われるかもしれないけれど、何だか急に怖くなった。人と触れあいたい!と思ったのだ。
私は急いで神社を出た。
富士御室浅間神社。むむ。信玄ゆかりの神社ということだけあって、そこを訪れた人に何がしかの感情を喚起させるパワーを持っているのだろうか。侮るなかれ。
・・・まぁ人一人いない静かすぎる環境っていうだけなのかもしれないけれど。
そんな恐怖感に苛まれた神社から、命からがら逃げて出た私は
ふと後ろを振り返った。
『振り返れば奴がいる』のである。
織田雄二ではない。
カンチでもない。
富士山がいるのである。
大体どこにいても東西南北どちらかの方角を向けば富士山はそこにいるのである。河口湖町の住人の人々は、常に富士山に見守られて日々を送っているというわけだ。
何ていう幸せ者だろう。
私は孤独感に苛まれていたこともあり、河口湖沿いの歩道を歩いていた住人とおぼしきおばあさんを捕まえ、自分は単身で千葉から富士山を見にやって来たことと、いかに富士山に感動したかを語り、
「いつも富士山を見られるなんて本当に羨ましいです。」
と、河口湖町の住人に対する羨望の念を伝えた。
「いーやいや、あんなの毎日見てるから、ありがたくも何でもねえす。」
と、おばあさん。
そうか。日本一と称されるあんなにも素晴らしい山であっても、毎日眺めていると特にありがたくもなんともなくなるのか。
いや、でも、やはり私は常に富士山に見守られて生活をしているここの住人の人々は、やはり幸せ者なのだろうと思う。毎日眺めているから新鮮味はないのかもしれないけれど、日本一の素晴らしい山の麓で生活を営む上で、特別意識することはないにせよ、日々日本人としての誇りと自信が育まれているのではないのだろうか。
でも、簡単に富士山を見ることのできない私だって幸せ者だ。
だって、麓に住む人々と比べてなかなか眺めることができないからこそ、こうやってたまに対面する時、そのつどその圧倒的な存在感に大いに感動することができるのだから。
って、あはは、いつまで続くんだーい!
コメント
コメント一覧 (2)
ちゃんとできてるかしら?
富士山編もおもしろい♪
前から漠然と富士山行きたいって思ってたけど、すごく行きたくなった!!
富士山のありがたみを感じちゃった☆
お参り方法も次から真似しよっと!!
えー、fuchaffin、今ここに今夏あなたと一緒に富士登山することが決定いたしましたので、お伝えいたします。インド用のバックパックを買ったから登山しなけりゃもったいないってことになったから、296期マラソン部に続き、ワンゲル部発足ね☆また「古民家フェ」行こうねー!!